-菅谷さんがWEBに興味を持った理由は?
菅谷 自分がどんな仕事をしたいかを考えた時、クリエイティブな世界に惹かれていた部分は強いですね。でも、印刷業だとか広告業のように、形として完成してるジャンルではつまらないなぁ、と。
-それまでのデザイナーって、ほとんどはオペレーターと同義語で、単なるフィニッシャーに近かった感がありますし。WEBと出会ったタイミングもよかったのかな。
菅谷 でも職業選択を意識してからは「じゃあ、何の仕事に就けばいいのか?」って、かなり悶々としてましたよ。親が期待するような大企業に就職して、安泰の生活を送るのもイヤだった。実際、就職もしたけど「やっぱり違うなぁ」ってコトで辞めちゃいましたし。
-独立する前に勤務していた、茨城福祉工場へ入社した経緯を教えてください。
菅谷 しばらくプラプラしてたんだけど、さすがに、そろそろ働かなきゃマズいだろうって時期が来まして(笑)。ハローワークで見つけた仕事がそこだった。世の中のためになる分野だから、まぁいいかぐらいの軽いノリでしたね。障害者への指導員という職種で入ったんですよ、当初は。
-指導員!? 要は先生ってコトですよね?。意外だなぁ。
菅谷 でもね、入社日初日に「お前、パソコンスクール作れ」って言われたの。「あ、ボクはプランナーとしての入社したのか」と(笑)。障害者のための事業企画を立案・運営、要は「障害者が仕事をするための事業プラン」をしてくれと。
-会社の組織内で、新人が起業するってことですね。最近では、そういう例も増えてきましたが、当時にしてはスゴイですね。相当に苦労したのでは?
菅谷 いえ(笑)。予算やパソコン等の機材も潤沢に用意されてたし。半年の準備期間を経て「障害者が運営するパソコンスクール」は最初から満員御礼だった。1年間で1,500万円の売り上げにもなった時は、起業の醍醐味を感じましたね。
- 1996年当時ですよね。同年暮れの12月に高度情報化推進協議会が茨城で立ち上がった。全国でも珍しい県運営のプロバイダとして「ネットいばらき」が生まれて、全県的にインターネットに取り組んでいくことになる。そういう時代でした。
菅谷 パソコンスクールが成功したので、次の事業を立ち上げることになった。それがWEB業界への参入です。
- 菅谷さんは、事業を切り開いていく人ってことなのでしょうね。 だから今、コンサルティングなんでしょうけど、当時の菅谷さんはインターネットの存在を、どう捉えました?
菅谷 「これだ!」って思いましたよね。既存ではないクリエィティブなジャンルが現れた。今までと全く違う形でビジネスが展開できる、と。ボクはこの世界を「天職だ!」って感じた。
- その頃を境に、自治体のホームページ開設の動きが活発になってきましたよね。
菅谷 パソコンスクールに続き、第2の事業としてホームページ制作業をやりなさいと。ボクからしたら、願ったり叶ったりですよ。
-でも、その頃ってインターネットのノウハウが確立されてませんよね? 情報も制作ソフトも少なかったですし。どうやって勉強したんですか?
菅谷 国内外を問わず、先駆者のマネ、模倣をひたすらしてましたね。企業のホームページを見て「コレ、いいな」と思ったら、お手本に独学。逆にそういう黎明期だったから、ボクにもビジネスチャンスになったんでしょうけど。今思うと、かなりムチャな感じで前向きだったとは思う(笑)。
-当時は、公共関係の仕事がほとんどだったんですよね?
菅谷 公共は右へ習えの時期。実際にホームページを制作・運営するお金も出てた。だから作りなさい、と。商工会もそう。営業的にターゲットは明確でしたよね。
当時の職場は半官半民で、すでに公共へのルートができてたから、アプローチもしやすかった時代ですね。
- 多くの制作会社が飛びついてましたよね。コンペに8社競合とか普通だし。「おい、ホームページ作ったコトないだろ!」って手合も、かなりいた(笑)。
菅谷 そのコンペで負け続けて、1年6ヶ月、1本も仕事を取れなかった。未勝利だから、勝つ手応えもわからないし、勝ちパターンも見えない。茫然自失でしたね。「どうすれば勝てる?」、「どうやったら評価されるんだ?」って。悩みましたねぇ。
- あの頃のWEBは三国志の世界に近い。突出した武将が一人いれば勝てるっていう。 自己分析として、敗因は?
菅谷 チーム作りが、全くできていなかった。ポルシェに自転車で挑んでたような感じ。あの頃は全力で勝ちを狙ってましたけど、思えば負けるのが分かってた勝負だった。
- そんな菅谷さんが念願の初勝利をつかんだのが、旧・美和村のホームページ。その日は1998年の12月24日。菅谷さんには最高のクリスマスプレゼントだったでしょう?
菅谷 背水の陣でしたね。もし、プレゼンが通らなかったら事業を撤退しようと決めてましたから。美和村の担当者から「採用です」って電話をもらった時は、嬉しくて嬉しくて、トイレで泣きました(笑)。
- 美和村のホームページ案は、星空の美しさをテーマにしたものでしたよね。
菅谷 現場に何度も足を運んだし、人口約5,000人の過疎村で、何をどうアピールすればいいのか、考え抜きましたね。その甲斐あって、開設後はかなり話題にもなりましたね。
- しかも、この美和村役場公式サイトは「いばらきデジタルコンテンツ大賞優秀賞」も受賞しました。
菅谷 企画を評価してもらえて、自信になりましたね。あとで、美和村の担当者と話をしたら「コンペの時に菅谷さんが一番フットワークが軽そうだった」って言われた。
企画力・知識・行動力をトータルで判断してもらえたことが、実はすごく嬉しかったんですよね。
- 「コイツに任せれば大丈夫」って思われた証ですもんね。そのぐらいの関係にならなきゃ、どうしたって、いいものは作りづらい。
菅谷 ガッチリ信頼関係で結び付いてれば盤石。むしろ、そこからがスタートみたいなものって意識がある。そういう意味でも、美和村サイトの初勝利は、ボクにとって、大きな礎になりましたね。
- その後はコンペで連戦連勝。公共ホームページを勝ち取る決め手とは?
菅谷 当時は、内容的に他社を圧倒してたわけでもないんで、ま、時の勢いだったのかなと(笑)。ただ、ボクは、公共・民間を問わず、コンペや商談は「一期一会」だと思ってるんです。投げかけられたテーマに対し、いかに的確で迅速な回答を用意できるかっていう。
- コンペを「一期一会」と捉える感性は、いつから身についたものですか?
菅谷 負け続けて辛酸をなめて、当時としては苦労を乗り越えて勝ち取った時に、価値観を植え付けられたのかな。「負けて覚える相撲かな」ってことで(笑)。
- 負けるのは悔しいけど、もっと大事なのはKO負けした次の試合にどう闘えるかって部分。
菅谷さんは実戦的なアドリブ能力もありますからね。
菅谷 引き出しをどのくらい持っているか。それには勉強も必要だし、どれだけ泥まみれになって日々の仕事へ真剣に取り組んでるかの経験値に尽きる。
反応の早さと質の良さは、10年も続けてればイヤでも身につく。そこまでコツコツやり続けられるかがどうかがポイントでしょうね。
- それでは最後の質問です。 今後の菅谷さん(アームズ)の事業はどう広がっていきますか?
菅谷 変わらないですよ。今のまま地道にガンバリ続けるだけ。贅沢を言えば、アシスタントしてくれるアルバイトを一人入れたいな、ぐらいのささやかな希望はありますけど(笑)。
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